石叫■         「これがイースターだ!」 

 マタイとマルコの各福音書には主イエスが十字架上の七つの言葉の中のただ一つしか記していない。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)という詩篇22篇からの引用である。

主はその箇所だけしか言えなかったのか、あるいは詩篇22篇全体を言おうとしたのかは知る由もない。もし、冒頭の箇所だけだと、それは絶望でしかないが、後者とするならば、詩篇22篇は全体として神を賛美している箇所なので、主は十字架上でも父なる神を賛美したかったのだといえる。それは確かに的をついた理解だとは思う。だが、一つ気になることがある。それは両福音書とも「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉しか記していないという事実である。十字架は聖書の中心とも言うべき出来事なので、私自身ぜひとも感動する言葉や良い印象を与える内容のものを記したいと思うのである。それなのにマタイとマルコは人の躓きとなるような「見捨てられる」という言葉しか記していない。それは一体何故なのだろうか。

福音書は何も私たちに良い印象を与えるためだけに書かれたものではない。逆に私たちに罪を突きつけることによって、私たちのすべて罪を引き受けて十字架についた主イエスのように裁かれねばならない存在であることを示している。この主の十字架は、父なる神がご自身の一人子であるイエスをさえ十字架につけて裁かねばならないほどに、神は罪を憎まれるということを私たちに教えようとしているのである。さらにマタイは、主が「ついに息をひきとられた」と続ける。そこには希望のかけらすらないではないか。さらに「昼の十二時から地上の全面が暗くなって」と記しているが、そのとき父なる神ご自身すらもわが子イエスの死ぬ行くさまを正視できずに目を閉じたことを意味している。

ところが「すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」と続く。これは神と人とを隔てていた障壁が取り去られたことを意味している。主イエスが私たちの罪を背負って十字架に死ぬことによって、今まで誰も開くことの出来なかった永遠のみ国に通じる道を開いたというのだ。絶望から希望へ変わった一瞬だった。これがイースターである。十字架には二つの意味があったのだ。裁きと救いである。マタイとマルコはそれを言いたかったのである。さすが神に選ばれた知恵者たちである。この暗黒の時代にあって、十字架こそが罪に目覚め、そこに光を投ずることによって救いをもたらす希望の光である。