石叫■           「母、帰る」@

 二月二八日の午後、義母、小野静江は無事に青森県の七戸病院に落ち着いた。ロサンゼルスから羽田、羽田から三沢という全行程十三時間の長駆のフライトは実にスリリングな旅であった。今回の母の帰国は母のたっての願いであり、私たち家族の心からの願いでもあった。母は病弱の娘、節子を助けるためにアメリカに来ていたこともあり、娘の死によって母としての使命をひと通り終えたことになるからだ。そのために僕と義妹の陽子の他に看護師の南城貴子さんが同行してくださった。絶えず呼吸困難に陥る母はいつ機内で発作が起きるか分からない。最悪の場合にはロサンゼルスを飛び立ってから引き返すかも知れないのだ。そのために看護師さんが居てくれると心強い。説得力があるからだ。

今回の旅では幾つかの関門があった。その第一は荷物検査で始まった。母の使う酸素器具の許可がなかなか下りないのだ。もとよりそれはANAやJALでも承認済みのものである。だが、車椅子の乗客は次々と通ってゆくのに、母だけが一人検査官に取り囲まれている。僕らは母に声を掛けてはいけないし、母もじっとしていないといけない。母の呼吸困難の一端は心の問題から来る。不安と恐れが引き金となって呼吸困難に陥ったら、すべてが終わりである。恐らく十分ほどはそこに居ただろうか。やっと許可が下りた。以前から母には、飛行機に乗るまでは苦しくてもなるべくそれを見せないでいて欲しいと言ってきたこともあり、後で尋ねると母はとにかく一心に耐えたのだそうだ。

 へブル書に「わたしたちの参加すべき競争を、耐え忍んで走りぬこうではないか」(12:1)とある。私たちの人生には耐えねばならないことがしばしば

ある。だが、耐えさせてくださるお方が居られることを忘れてはなるまい。

これまでフライトの最初の一時間が最大の関門だと言われてきた。機内気圧が二五パーセントも低下する。そのような中で母がどうそれに耐えてゆけるのかが課題であった。だが母はそれを何なく通り越した。酸素ボンベを装着した母は、機内最後部の二人掛けの椅子の肘かけを外して窓側に足を伸ばし、体を陽子に預けるようにして目を閉じている。離陸の時も母は快適なようだった。

だが、第二の関門が羽田でやって来た。呼吸困難になったのである。そのような場合には体を横にすると良いので、JAL三沢行きが飛ぶ小一時間ばかりの間、空港の救護室で休むことになった。ここで回復しないと七戸病院の到着が遅れ、携行した酸素機器のバッテリーが持ち応えることができない(続く)。