石叫■           「輝く笑顔の人」F

絶望の中で何が大丈夫なものか! でも節子はそういう人だった。相手に心配させまいとしていつもそう言うのだった。最後の最後まで、否定的なことは言わなかった。その家内の励ましが僕の心をどれだけ慰めたことであろうか。

この地上での最後の時間、僕たちはまた思い出を語りあった。「節子、この三十年間で何が一番楽しかった?」と尋ねると、朦朧とする意識の中で節子はニッコリしてまず応えたものだった。「婚約リング!」。三十五年ほど前、貧しい神学生の僕には指輪を買う金もなかった。そこでファンタ・グレープの缶に付いているリングで指輪の交換をしたのだった。二人だけの婚約式であった。僕らの門出にはそれが相応しかった。「それじゃあ、次ぎに何が嬉しかった?」。「子供たちの名前を考えたこと」。ああだったね。こうだったねと言うと、節子も「んー、んー」と嬉しそうに全身で応答する。そのようなたあいの無い会話が実は今になってみると、何にも換えがたい宝のような思い出となっている。

詩篇137篇冒頭に「われらはバビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した」とある。バビロン捕囚の苦しみの中でも、ユダヤ人にとって神の都シオン、つまりエルサレムが彼らの心の故郷であった。そこを思い出すことが彼らの慰めであった。家内と僕との三十年の結婚生活の中で、この一週間の思い出が恐らく一番慰めに満ちた天国のようなひと時であったと言えるのかも知れない。今それを思い起こしては愛しい涙を禁じえないのである。

入院して以来、節子は四六時中呼吸困難と闘っていた。でも、どんな療法も薬も効くなくなっていた。唯一の方法はモルヒネである。それは呼吸の困難の度合いによって強くしてゆく。それはまた死と直結することをも意味していた。召される前夜、薬のせいか節子は「目が見えない」と何度も言った。そして段々反応がスローになり、その夕べからもう僕の声にも応答しなくなっていた。

翌19日の朝、母はロスアラミトスの病院から出ることができ、節子の枕辺に立った。だが、娘はもう母の叫びに応えてはくれなかった。母思いの節子のことだ、どんなにか応えたかったであろう。病室には母の叫びだけが空しく響くのだった。その夕べ数人の訪問客がいた。最後に帰ったのは六時四十分頃であったろうか、それからだった。絶えず目を注いできた枕辺のモニターの脈拍数が段々少なくなってきている。素人目にも危険だと分かる。いつもは九十台の数値が七十近くまで下っている。すぐに息子に来るように電話した(続く)。