石叫■             「勝海舟」

勝海舟と言えば西郷隆盛と渡り合って江戸城無血開城をした幕府の知恵袋である。『勝海舟・最後の告白』(守部喜雅著・いのちのことば社)から引用する。

明治維新の指導者たちの中で、勝海舟ほどキリスト教の影響を受けた人物はいないと言われている。彼は漢訳聖書を座右の書としていて、幕末のキリシタン禁制の時代に、大胆にもキリスト教を擁護したことで知られている。海舟は1823年、江戸本所に生まれた。15歳で剣術の免許皆伝となる。その頃から蘭学との出会いが始まり、オランダで出された万国地図を初めて見た海舟は海外に興味をもち、何とかオランダ語を習得しようとする。やがてそれを習熟した海舟は赤坂に「氷解塾」という私塾を開き、オランダ語と西洋の兵学を教えた。彼にとってオランダ語の習得は彼の人生に大きな影響を与えたと同時に、キリスト教との出会にもなった。徳川幕府は鎖国時代にも唯一の例外として長崎の出島にだけはオランダと中国の商船への寄航を認めていた。海舟はペリー来航の折、幕府に「海防意見書」を提言したが、それによって長崎の海軍伝習所に行けとの命令を受ける。そこで海舟は教師レイケンを通してキリスト教に接する。その後、新たな教師として咸臨丸に乗って現われたカッテンディーケとの出会いを通して更にキリスト教に引き込まれ、外国の賛美歌まで邦訳している。その分野での最初の日本人と言われる。やがて1860年、咸臨丸の教授方として遣米使節団に加わる。アメリカでも毎週のように日曜礼拝に出ていた。明治新政府になってからの海舟は政府の顧問役であった。1857年、一ツ橋大学の前身、商法学校の立ち上げのためウイリアム・ホイットニーが招聘されるが、海舟は彼らと親しい仲になり、自分の屋敷内にまで住まわせるようになる。そこで彼らは家庭集会を開き、後に津田塾大学を創設した津田梅子の父である津田仙などに伝道をしている。やがて長女クララは海舟の三男梅太郎と結婚した。彼女は筆まめで、医師で熱心なクエーカー教徒だった兄のウイリスから、海舟が「私はキリストを信じる」と言ったこと等が日記に記されている。日本基督教団赤坂教会の現在の教会堂は海舟の屋敷跡に建てられている。

世界に目が開かれた時、そこにあったのは聖書だった。そこには「すべて真実なこと…すべて愛すべきこと…称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい」(ピリピ4:8)とある。人としての真実な生き方が聖書にあると知った時、勝海舟の心が徐々に開かれていったのではないかと思われる。