石叫■           「晩秋の名月」A

「神が合わせられたものを人は離してはならない」(マタイ19:6)とあるように、神がご主権をもって合わせた二人であればこそ、神に信頼することによって多くの困難を乗り越えてゆけるというのがこのみ言葉の本意であり、そこに祝福がある。この神の言葉を思い返しながら、先の質問を振り返ってみた。

これまではそのような質問に対して「できなかったでしょうね」などとあいまいに応えていたのものだが、ふと最近、24時間体制で看護の必要な家内に接している中で見えてきた世界がある。それはこの質問に対して今は「やはり結婚していました」と言える自分であることを。何も今更ここでのろけるつもりもないが、今までは言えなかった先の質問への答えが、結婚三十年も経って始めて見えてきたことがいつになく嬉しかったのだ。否、今だからこそそう言えるのかも知れない。それこそ主が見せて下さった祝福だと思うのである。それが恵みという世界なのではなかろうか。ベッドから自分の身ひとつ起こせない妻を見るたびごとに、夫婦というのは生涯かけて一つになってゆくのであり、これが私たち夫婦の通るべき祝福の道なのだと今にして思うのである。

創世記でアダムの「助け手」(創世記2:18)として妻のエバが与えられている。今までは何で伴侶が助け手なのか。どうして愛の対象などと云わないのかと疑問に思っていたものだが、今、愛する者が病んで初めてその真意が見えてくる。それは本来の夫婦のあり方は、お互いに助け合うところにあることを。助け合ってこそ神の祝福を共に分かち合えるのであり、それが二人の関係を豊かにする神の知恵なのではあるまいか。それを絶えず忘れないようにお互いに励まし合うことが夫婦の本来の姿だと思うのだ。何と神の知恵の深いことよ!

有明の月が道路向こうの家の屋根の端(は)に沈んでゆく。もっともっとその月明かりを愛でたいと願ったのだが、寝室から居間に移った妻から声がする。じっとして動かないまま、僕の来るのを待っている。骨に拡がったガンのせいか体のふしぶしが痛み、多くの投薬のゆえに絶えず水を所望する。そこで思う。僕こそ妻の助け手であると。祝福は共に痛みを分かち合い、励まし合うところから来ていると思った時から、いつになく妻の傍にいるのが嬉しい。神が合わせてくれたお互いであれば、心を合わせることによってその幸せを噛みしめることが出来るではないか。困難は祝福への道、今私たちはその困難という祝福のただ中を歩んでいる。そして今、その幸せをしみじみと噛みしめている。