石叫■         「夫が妻に優しくなれる時」A

さて、家内の体が弱く、体一つ横たえることも自分ではできず、すべてを周りの者たちがケアーをしなければならなくなった時に見えてきた世界がある。それは家内に対する優しさである。特に家内が失神した時、ほっぺを叩いても、体を揺り動かしても眼を開けたまま、まったく反応がないではないか。すぐ目をさましたのだが、リクライニング椅子を水平にするとまた寝込んでしまった。

それを機に失神するほどに苦しんでいた家内の痛みを理解できずに、ただ傍でおろおろするばかりで、時には苛立ちさえ感じていた僕だったのが、弱さの中にある家内を目の当たりにした時、どうして彼女を責められようかという自責の念に駆られたのだった。家内の痛みを共有できない自分が嫌になったのだ。

この事が起こるまでは「ああしてくれ、こうしてくれ」という家内の声に時には無視したり、怒鳴ったりしていた時もあった。ある朝いつものように血糖値を計り、インシュリン投与という時になった。その日はどうも気持ちが朝からついては行けなかった。「お父さん、お父さん」と何度も家内がベッドで叫ぶ。でも、応えるのが億劫だった。節子は4〜5回叫んだだろうか。それからはピタっと止んでしまった。僕が「聞こえてるよ!」と怒鳴ったからだった。でも、その直後、心が責められ、家内のところに飛んで行って「節子、お願いだから耐えてくれよ! こんな時もあるのだから」と言って僕はひとしきり泣いた。

そして最近、透析に付きっ切りになってからのこと。週三回各4時間の透析によって自分の時間がなく、教会の仕事も満足にできないと思って、透析に行くのが億劫になりはじめたことがあった。しかしである。家内の透析に付き添っているうちに、その痛みを一緒に分かち合っているという思いが僕の心を優しくしていることに気付いた。心が平安なのだ。確かに自分の時間はもてないし、家事に多くの時間が費やされるし、義理の母の看護もある。だが、弱さや苦しみを共有しているという思いが、心に平安となって注がれていたのだった。

パウロは「わたしは弱いときにこそ、わたしは強い」(Uコリント12:10)と言う。彼は弱くて今にも倒れそうな時に主に信頼することによって、主の救いのみわざを次々と目撃してきたのだった。家内の傍らで、本来なら弱さのゆえに不安と恐れしかないような状況でも、今までにない平安があるのは主が痛みを共有して下さっているからである。夫婦が互いに優しくなれるのは順風満帆の時ではなく、弱さのただ中であった。弱い時にこそ祝福があるからだ。