石叫■            「聖霊を受けよ」

主イエスは十字架に死んだが三日後に復活した。その日の夕方、弟子たちの所に突然主が現われて「聖霊を受けよ」と言われた。死からよみがえって真っ先に主が言いたかったのは実にそれであり、それだけであった。

そしてすぐ使徒行伝1章8節が続く。「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて……地のはてまで、わたしの証人となるであろう」と。つまり主は弟子たちがキリストの証人となるために、聖霊の力によって世界に出て行って福音を伝えて欲しかったのだ。福音を伝えるためには聖霊という神の力が必要だからである。というのも、この聖霊によらなければ誰も「イエスは主である」(1コリ12:3)とは言えないからである。

私たちが救われた時、何か自分の意思で信じたように思いがちであるが、そうではない。そう言わせたのは聖霊によるのだと聖書は言う。神の世界は神の導きがなければ決して理解はできないし、そこには入れないという大原則がある。福音は聖霊の助けによらなければ決して伝わらないからだ。

天地創造の時、神は人を造られたが、当初それはただの土くれに過ぎなかった。そこで神は命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きたものとなった(創世記2:7)とある。これは人はたとえ心臓が鼓動して生きているように思ってはいても、神との関わり合いがないのなら本当は生きていることにはならないという意味である。だが、人はエデンの園で悪魔にそそのかされて神に従わなかった。そこで神との関わり合いを失ってしまったのだった。

一旦は失ってしまった神との関係、つまり神と共に生きるという特権をパウロは「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、全てが新しくなった」(2コリ5:17)と宣言する。主の十字架の犠牲を通して天地創造の時のような本来のあるべき姿に戻してくださったというのだ。つまり再創造をしてくださったのである。

赤ちゃんが生まれて来る時、口や鼻に水や痰が詰まって呼吸ができず仮死状態で生まれることがある。そのような時には管で吸引する。それから息を吹き込むではないか。それによって初めて赤ちゃんは「オギャー」と叫ぶ。人は聖霊が吹き込まれて蘇生する。つまりこの「聖霊を受けよ」とは神の命を手渡せという意味であり、それは祈りと聖書を通して日々神と交わり、神を賛美し続けるということによって可能になる。それこそが実に私たち信仰者の命である。