石叫■          「わが杯、溢れるなり」

アメリカのノーベル賞作家スタインベックは名著「怒りのぶどう」を出している。このタイトルは黙示録18章3節他からの引用であるが、それを具体的に用いているのは主イエスが十字架につく前のゲッセマネでの祈りの時である。

主イエスはゲッセマネの園(マタイ26章)で、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい」と嘆願する。これは父なる神の怒りを受けて立てないという意味である。神との愛の交わりこそが、それまでの主の働きを支えてきた絆であっただけに、それを切られるというのは耐えられないことであった。でも主は続ける「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と。主は父なる神に全権を委ねたのだった。その主は翌日、十字架上につけられる。つまり神の怒りの杯を飲んだのだった。そして叫んだ「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と。これは詩篇22篇1節のダビデという紀元前800年前の人物の予言の成就であり、神の怒りの頂点を指す。

だが、預言者ダビデは同じ22篇で、「しかし、主はきよいお方。先祖の賛美の声は、み座を取り囲んでいました。主に信頼していた彼らを、主は助け出してくださいました」(リビング・バイブル)と続ける(3節)。み座とは父の居られる場であり、そこでは手を挙げて、父なる神を信じる者がそこを取り囲むようにして、賛美をしているという情景だ。さらには「わたしの賛美はあなたから出る」(25節」と続いている。つまり主はダビデを通して十字架が賛美に変えられたと宣言しているのだ。怒りの杯が喜びの杯に変えられたというのだ。

やがて主は十字架上で、その息の絶えんとするまさにその時、「すべてが終った」(ヨハネ19:30)と叫んでこと切れるが、これこそは十字架にまで導いて下さった父なる神への感謝の叫びなのである。この十字架によって天国への橋が架かったのであり、人類の救いが完成したからである。これで主を信じる者すべてが神のもとに立ち帰ることが出来るという「雄たけび」であったのだ。

この詩篇22篇の「どうして私をお見捨てになったのですか」と言って、神の怒りの杯を飲み干した後で、23篇5節には「わたしの杯はあふれます」とある。父なる神の怒りを一気に飲み干した主イエスであればこそ、父は主イエスに「すべてに優る名をお与えになった」(ピリピ2:9)とあるように、その空になった杯に今度は救いの喜びのぶどう酒を注いで下さったのだと言える。