石叫■           「荒波の中での洗礼式」

この3月20日のサンデーにコロナ・デルマーの海岸で前嶋理史兄の洗礼式が執り行われた。まもなく日本に帰る彼は、その前に急きょ洗礼の決心した訳だ。その話はもう半年も前からしていたのだが、日本で信仰生活を続けるのなら日本で受けた方が良いだろうとお互い考えていた。そこで日本に帰る前だからこそ聖書の特訓をすべきと、この5ヶ月間、毎週2時間の学びをしてきたのだった。だからいつでも洗礼の準備は出来ていた。そうして迎えた日曜の朝は曇天だったが、どうにか雨は持ちこたえている。「ハレルヤ! これで海で出来る」と思ったのも束の間、途端にポツポツと雨が降り始めてくるではないか。幸い礼拝が始まる前に雨は止んでくれたが、風がいたって強い。一体これだと海はどうなっているだろうかと訝りつつも、小雨実行と前日の役員リトリートで話し合っていたこともあり、礼拝前に役員を招集し、礼拝中ではセレモニーだけをし、洗礼は海ですることを確認した。だが午前の集会が終わり、いざ海に出かけようとする時、ある姉妹から「こんな強い風で海は大丈夫なんですか」と来た。そうなると僕も心が動く。でも心は荒天の海ですることを決めていた。

海を見下ろす高台から見ると強風でひどく時化ている。白波が岩場に押し寄せていて、一体どこで洗礼式ができるだろうかと思うような状況であった。でも幸い雨はない。海岸に降りてゆくと、そこは崖の真下になっていてあまり風はない。そしていつもの洗礼スポットは水深も丁度で、大きな波が押し寄せてきた時に合わせて体を沈めればスッポリ体は水に浸かるし、幸い外の気温は摂氏16度だったこともあり、海に浸かっても差ほど冷たくはない。そこで居合わせた20名近い参加者と共に賛美をし、理史兄と二人、海に入って行った。そこで私は凪の海での洗礼も良いが、今回のような荒天の海も、これから押し寄せて来るであろうさまざまな人生の荒波を必ず乗り越えてゆくのだという決意を表しているようで洗礼式に相応しいのではないかと思わされたのだった。

マタイ14章に主イエスは「しいて弟子たちを舟に乗り込ませ」(22)とある。そこはやがて嵐になってゆくガリラヤの湖だ。それを知りつつ主は強いて愛弟子たちを送ったのである。そこで嵐をも乗り越えて来られる主に出会うためであり、主こそ神であるという信仰に導くためであった。嵐というのはそのためのものだとすれば、この度の洗礼はまさに、これから送り出される信仰の大海も主が乗り越えさせて下さるという祝福の予表だったとは言えまいか。