石叫■           「賛美を歌い続けた」

 新年の私たちの教会年間聖句は使徒行伝16章にあるパウロとシラスのピリピの獄中での賛美が示されている。今年はここから始めることにしよう。

ピリピという少アジアにある小さな町でのことだ。使徒パウロとシラスとは占いをして主人たちに多くの利益を得させていた女奴隷に出会った。彼女はパウロを見て、「いと高き神の僕たちで、救いの道を伝えるかただ」と叫び続けるのでパウロは困りはて、占いの霊にむかって「イエスの名によって出てゆけ!」と命じたところ、すぐに出て行った。彼女の主人たちは自分らの利益を得る道が絶たれたのを見て、パウロとシラスを捕らえ、町の長官に引き渡した。彼は二人を鞭打つよう獄吏に命じ、足かせをしっかりと掛けて獄に入れたのだった。

 「真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた」(使徒行伝16:25)とある。パウロたちは先ず鞭打ちの刑を受けた。だが、彼らはローマ市民なので法律的保護が与えられていたのだが、その弁明もせず、しゅくしゅくと獄に入ったのであった。翌日彼らは、獄から出される時にやっと自分たちはローマ市民であることを告白したのだったが、ローマ法は長官とても厳守しなければならない世界であった。でも、なぜ彼らは自分たちの身分を証ししないで敢えて鞭を受けたのか? なぜ真夜中、皆が寝静まっている時に敢えて神を賛美し続けたのか? それは安眠妨害ではなかったのか? そんな風に考えてゆくと、このパウロたちの獄中賛美はどうも納得のいかない理不尽な出来事のように思えてくる。

 このような中で突然地震が起き、獄の戸が開いて囚人たちは逃げ出せる状況になった。一人でも逃げたのなら獄番は死をもってあがなう必要があった。だから獄吏は囚人が脱走したと思って自殺しかけたのだが、パウロがそれを制する。「皆一人残らず居る」と。その叫びに獄吏の心の眼が覚めたのであろう、パウロに「わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」と訴えたのだった。  

実はパウロたちは賛美の力を信じていた。主イエスの証によってたとえ獄に入れられるような状況になっても、神は最善をなして下さるという神への信頼が賛美となってほとばしり出たからである。それが囚人や獄吏をして神の臨在を覚えさせたのであろう。主の道を歩んでいても多くの誤解や痛みがある。それは伝道では避けられないものである。だから、そのような中でこそ主を賛美したいものである。それが最善の証しであり、人々の救いの道となるのだから。