石叫■            「放蕩息子と父」

 先日、北米聖書神学院のクラスで山本真美子氏による「ユダヤ人伝道」のクラスがもたれ、彼女は放蕩息子(ルカ15章)の話をされたのだが、タルムード(旧約聖書講解)を背景にしたその内容に、僕は思わず唸ってしまった。

 ある日、二人兄弟のうちの弟が父の財産を分けてもらい遠い国に出かけた。そこで彼は放蕩に身をもち崩してしまう。その世界の魅力に負けてしまったのだ。ところがそこで飢饉が起こり、生きるために豚の飼育をしなければならなくなり、その飼料を食べるほどに窮してしまった。それはユダヤ人社会からの村八分を意味していたが、弟にとってそれしか生きる道が残されていなかった。

実はこのストーリーは旧約聖書の申命記21章が背景となっている。そこには「わがままで、手に負えない子は…町の人が石で打ち殺し、あなたがたのうちから悪を取り除かなければならない」とある。つまりこの中にある父は自分の子が殺されても仕方のない状況にあることを知っていた。タルムードにはその放蕩とはどのようなものかという説明が詳しく記されてあり、それを元にこの放蕩息子を診てみると、まさに父のもとに帰れる状況ではないし、帰っても殺される立場にあった。そのような中で弟は死に直面し、はじめて本心に立ち返って、「天に対して、父に対して罪を犯しました」と独白したのである。そして許されるのならば、殺されても良いから、ズタズタに引き裂かれても良いから、父のもとに帰ろうと思ったのだった。人の本分とは、「神を恐れ、その命令をまもれ」(伝道12:13)とあるが、人が本心に立ち返った時に、どこに身を置いて良いかが分かるというのである。そこが父なる神のみもとであった。

つまり父は自分が息子の命を守らなければと思っていたのである。そこで「まだ遠く離れていた」にも拘らず、彼を認めたのであった。わが子を守りたいという一念と人の本分を考えた時、息子は必ず帰って来ると信じていたからである。確かに死んでしまったような息子ではあったが、(この物語には二回もそう記されている)、父は決して諦めなかったのだ。神はどんな絶望状態の中にある私たちであっても、本心に立ち返って神のもとに立ち返る日を、今か今かと待ち焦がれておられるのである。決して諦めずにあなたを守り、あなたを信じて待っているお方なのである。神であるご自身が私たちを受け入れなければ一体誰がそうするだろうかという叫びにも似た気迫をもって、今も私たちが「遠く離れて」いても、待ち焦がれつつ待っているお方が、私たちの信じる神である。