石叫■           「変わること」

 星野道夫の著書『旅をする木』を読んだ。彼はカムチャッカで熊に襲われ、四十三年のあたら命を愛する北限の原野に捧げたのだった。彼の生き様は以前からビデオでは見知っていたのだが、その本を読んで改めて感動したのだった。

 

ある夜、友人とこんな話をしたことがある。私たちはアラスカの氷河の上で野営していて、空は降るような星空だった。オーロラを待っていたのだが、その気配はなく、雪の上に座って満点の星を眺めていた。月も消え、暗黒の世界に信じられぬ数の星がきらめいていた。時おり、その中を流れ星が長い線を引きながら落ちていった。「これだけの星が毎晩東京で見られたらすごいだろうなあ……夜遅く、仕事に疲れた会社帰り、ふと見上げると、手が届きそうなところに宇宙がある。一日の終わりに、どんな奴だって、何かを考えるだろうな」「いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろ。もし愛する人がいたら、その美しさや、その時の気持ちをどんなふうに伝えるかって?」「写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンパスに描いてみせるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな」「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって……その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって」

 

 人は自分の感動した世界をどのように人に伝えるかという時に、そこには自分の魂を揺り動かすような、大げさに言えば、そこには自分の人生を変えるような大きな心の動きがあった訳で、それを説明しようという時、以前の自分のままではいない。相手に伝えたいという熱情が、以前のままの自分ではおかないのである。心豊かにされた時、自分の内側が自づと変えられるからである。

 同じく福音に接して私たちは変えられた。否、新しくせられたのだ。以前とは違う自分がそこにはある。神の愛の世界に心を揺り動かされた時に、その感動を何とか知ってもらいたいと願う熱き思いが、自分を変えたのではないか。

パウロは、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(Uコリント5・十七)と宣言する。心を揺すぶるような感動によって以前の自分のままではおかない新しい自分こそが、相手に感動となって伝わってゆくのである。