石叫■         「道端、石地、茨の心でも」

毎月『アシュラム』という小冊子が送られてくる。いつも楽しみな心の定期便である。その中の「牧会者の静聴」を記した樋口洋一師の一文が光っていた。

 「夜学の神学校に通いながら、昼間は宅急便の配達員として働きました。この仕事は時給制でしたから、働けばそれに見合うだけの成果が与えられました。しかし、牧師として働かせていただくようになってからは、そういう訳にはいかなくなりました。努力しただけの収穫があるという訳にはいかなくなったのです。教師として、かれこれ十年になりますが、この間、私は一体何をしてきたのだろうかと思うと空しくなることしばしばです。私は芽の出ないだめな教師だと思えて、祈る元気がなくなったりする訳です。しかし、そんな時に思い出す言葉があります。『私の心が道端のようであるときも、神は種を蒔き続け、私が茨で覆われていても神は種蒔きを止めたまわない。どんなに芽が出なくても、私にみ言葉の種を蒔くことを止めない神に感謝』。アシュラム・センターの主幹だった田中恒夫先生が、集会の奨励で種蒔きのたとえを取り上げて、このように語られたのを記憶しています。道端と石地と茨の土地はこの私自身であり、種撒く人は神様で、芽が出ないと分かっているのに撒き続けてくださるのだというのです。たとえ私の耳がふさがれていたとしても、神はあきらめないでみ言葉を語りつづけ、芽の出ない私に対しても、神が祈り続けておられることを思い起こさせてくれました。神が私にそのようにしてくださっているのであれば、芽が出ないからといって、私が勝手にみ言葉の種を撒くことを止めてしまう訳にはいかないでしょう。道端であり、石地であり、茨の土地である私にさえ撒くことを止めない忍耐の神に感謝しつつ、また明日から励みましょう」。

 この種まきのたとえはマタイ13章に出てくる。心という土地には4種類あり、道端とは悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行き、石地は御言を受け入れるが、困難や迫害が起ってくると、すぐつまずき、茨とは御言を聞くが、世の惑わしが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。でも良い地にまかれたものとは御言を聞いて悟る人のことであり、そういう人は実を結んで、百倍、六十倍、あるいは三十倍にもなるというのである。

神はどんなにかたくなな心の状態にある私たちであっても、「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」(ルカ22)とあるように、良い地となる希望を持って今も祈り続けておられる忍耐の神なのである。