石叫■            「われに良きこと」

 先週はオレンジ郡教会で心臓移植二十周年の節子の証しがあった。そこで僕は家内のわが子に対する熱き思いを改めて知らされると共に、移植がどれだけわが家には大きな痛みではあったかを思い返していた。同時に、それゆえに家族で心を一つにすることが出来たという神の恵みもまた思い知らされていた。

幼な子たちにとって母親が入院で家に居ないというのは、何という痛みであろうか。家内が初めて入院した時のことだった。その日は教会員の菊池幸さんが、突然現れて子供たちの世話をしてくれた。誰か彼らを預かってくれる人はないものだろうかと思案している最中に、「お子さんたちの世話をさせて!」と訪ねてくれたのである。その後まもなくして彼女は交通事故で召されてしまったが、今でも彼女は私たち家族にとっては忘れられない恩人の一人である。

その日、夜おそく病院から帰ったのだが、幸さんは子供たちに夕食を食べさせ、お風呂にまで入れてくれていたのだった。ところが、母親のいない夜は子供たちにとっては生まれて初めての経験だった。彼らにいくら、「お母さんはお泊りしているよ」と言っても、四、五歳の子供たちに理解できるはずがない。でも、いつものように彼らと手を取り合ってお祈りをした。そして二段ベッドに寝かしつけた後だった。寝息が聞こえたと思ったとたん、下の子が「マミー」と叫んだのである。僕はその言葉ほど僕の心に突き刺さる言葉を知らなかった。子供たちにとって母親がそばに居ないということがどれほど寂しいことなのかを改めて思い知らされて、今まで緊張しっぱなしで、祈ることすらも忘れていた自分に気付き、初めてわれに帰ったのだった。そして滂沱としてあふれるものを禁じることができなかったのだが、そこで流した悲しみと痛みの涙が、このたびは、今まで主によって生かされて来たという喜びと感謝の涙に変わった。

詩篇に、「苦しみにあったことは、わたしに良いことです。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」(119:71)とある。一体どこの誰が苦しみは良いことだと言えようか。気が狂ったとしか思えない言葉である。だが、そうではないのだ。苦しみを通ることによって、今まで知らなかった神のおきて、つまり神のみ旨を知ることができたのである。それはこうなのだ。神のみ旨とは神の愛に導かれる世界である。たとえ移植という苦しみはあったにしても、それにもまさって神の愛と憐れみによって生かされてきた二十年でもあったのだ。まことに神のなさるみ業は、われに良きことであった。