石叫■             「貧困の光景」

曽野綾子氏が「貧困の光景」(新潮文庫2009年)という本を出版された。私は彼女の本はあまり読まないが、
今度ばかりは喰い入るように読んだ。貧困諸国の状態があまりにも如実に、しかも私たちの常識をはるかに超えて
痛く心に迫ってきたからだった。その一端なりとも、ここにご紹介しよう。

 飢餓地帯ではなくとも、アフリカのパーティでは、人々は黙々と食べる。会話をしながら食べるということはなく
真剣に食べる。だから会場のご馳走はあっという間になくなる。「お持ち帰り」用の箱などなくても、肉の切り身なら
そのまま、男たちがポケットに入れて帰るからだ。家族思いなのである。
服が汚れるだろうとか、食べ物にごみがつくだろうなどという危惧は全く抱かない。

 同じアフリカでのことだ。この子はシスターたちの目の届かないところで、おかしな行動をした。手に持っていた
手提げ袋の中にお皿に受けたおじやを入れようとして係りのシスターに注意されたのである。
日本人なら、おじやがこぼれないようにお皿を水平に入れようと試みたいところだろうが、縦長の構造の袋では、
おそらくそれが不可能なことであったろう。しかし彼は自分がたべたふりをしてお皿を袋に入れて持って帰ろうとしたのである。
日本人なら容器がなければおじやを持ち帰るのは諦める。アフリカでは決してそうではない。 

ボリビアの田舎の小学校の子供たちは家ではほとんど食べていない。私もスポンサーとしてその給食を食べた。
肉と野菜とご飯が大体五十円くらいでできる。私が様子を見ていると、一人の子供がお皿を大切そうに持って、
こぼさないように気をつけながら、校庭を横切って反対側の木立の間に行くのが見えた。
そこに大体同じくらいの年の三人の少年が遠慮がちに立っていた。先生に聞いてみるとそのうちの二人は兄と弟、
もう一人は友だちなのだという。少年は自分がもらった給食を毎日身内や友だちにも分けて食べさせて、彼らを養っていたのである。
10才かそこらの「小さな父」は日本にはほとんどいない。

 これらの人々は何と優しい家族思いの持ち主であろうか。アメリカや日本ではとっくに忘れてしまった優しさである。愛する者たちが喜んでくれたら、自分が少々空腹でも構わないのである。「何よりもまず、互いの愛を熱く保ちなさい」(1ペテロ4:8)とあるが、極限状況の貧困の光景にこそ、そのような熱き愛をみる。
私たちは本来持っているべき優しさを取り戻す努力をする必要があるのではなかろうか。
彼らにこそ、私たちは優しさを学ばなければなるまい