石叫■            「握り返した手」

 この年末の29日、3ヶ月程前からアナハイムのナーシング・ホームで療養中のチャイルズ富姉が召天された。
享年86才であった。葬儀が近くのサイプレス・フォーレスト・ローンで執り行なわれたが、彼女の最後に相応しい
質素な中にも、何かしら和やかさを感じる実に家族的な雰囲気の葬儀であった。

富さんはホームに入ってからはほとんど誰とも会話を交わすこともなく、家族にさえ反応を示すこともしなくなり、
もはや日中にケアーをされる日本人の、トキさんしか分からなくなっていた。私が感謝祭に訪問した時も同様であった。

このクリスマス・イブの日もポインセチアを持って訪問した。感謝祭の時のポインセチアもトキさんがしっかりと
水をやってケアーをしてくれていたので、二鉢の真っ赤な花が車椅子に座っていた富さんのバック・グランドを飾った。
トキさんに最近の様子を伺いながら、彼女の様子をジイッと見ていた。彼女は何か遠くにある一点を見据えるかのように身じろぎもしなかった。その顔は実に神々しい程に平安そのものであった。もちろん、語りかけても反応しない。
そこで「富さん、今日はクリスマス・イブだから、イエス様の降誕を感謝しましょう」と言って、彼女の両手を取って
姉妹の上に神の豊かな祝福があるように、そして家族の上に主イエスの幸いが届くように祈った。
そして最後に「アーメン」と言った時だった。彼女は私の右手をしっかりと握り返したのである。

体を動かすことも、一言も言葉を発することの出来ない富さんではあっても、その手が私に「アーメンです」という
応答をしてくれたのである。彼女はその時、すでに主イエスを見ていたのではなかろうか。
天に凱旋する人は往々にして神を見るからだ。だから、その顔が神々しく見えていたのかも知れない。
否、家族や孫たちに愛され囲まれて晩年を迎えた富さんである。握り返したその手は、家族を頼みますという叫びで
あったのかも知れない。
死期を迎えて心に去来するものは、自分のことよりも残される家族のことであったろう。
その幸せを願う叫びが、振り絞る最後の力となって私に伝わってきたのではあるまいか。

「イエスは…彼らを最後まで愛し通された」(ヨハネ13:1)とある。
主は弟子たちを十字架の死に至るまで愛されたのだった。

私の手を握ったその富さんの手を、今度は主がしっかりとその愛のみ手で包んでおられることだろう。
主のみ手はまた同様に、「あなたに託した愛する者たちの救いを頼むよ」と嘆願するばかりに、あなたの手をしっかりと
包み込んでおられるのではなかろうか。